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1. インタビュー企画 『未来医療への挑戦者たち』 シリーズ第5弾
京都大学再生医科学研究所 田畑泰彦

【プロフィール】
田畑 泰彦(たばた・やすひこ)
1981年京都大学工学部高分子化学科卒業、同大学院に進学し1988年に工学の博士号を取得。その後、京都大学医用高分子研究センター助手、同大学生体医療工学研究センター助教授を経て現職。教授就任後、2002年に医学、さらに翌年薬学の博士号を取得。

●第1回「研究者・田畑泰彦ができるまで」

──「研究者・田畑泰彦ができるまで」ということで、まず小さい頃からのお話をおうかがいしたいと思います。どのような子供時代や大学生活を過ごされたのですか。

田畑 大阪の京橋という、商売人の町のど真ん中で生まれ育ちました。ものすごくいかがわしい、柄が悪いところで、昔は日本刀を振り回したりする者もいたりして、すごくアブナイところでした。

 父は家具屋の二代目、後にインテリア関係の仕事に広げて7、8軒のチェーン店を持ったり、不動産、貸しビルや貿易もやっていた実業家です。私はその一人息子、姉が一人いますが、跡取りですね。しかし、勉強ができなかった。小学校6年間で、5段階評価で5をもらったのは2回だけです。

──やはり理科ですか。

田畑 いえ、家庭科の料理と体育の水泳(笑)。算数、理科は、1とか2。なにしろ分数ができなかった。分数ができなかった小学生でも、こうして大学の教授になれるのだ、ということは強調しておきたい(笑)。「おれは頭が悪いんだ」とずっと思っていました。だから落ちこぼれや劣等感を持っている人の気持ち、わかります。小さい時からできる子って、私から言わせれば、上を向いて歩いている。だから打たれ弱いですね。

 このままだと商売を継ぐこともままならないと家庭教師も付けてくれて、私立中学校を受験したが、勉強しないから落ちるのは当たり前で、中学校は地元の公立に進みました。現在は、自分の子供にばかにされます、「パパ、そんな中学校に落ちたの?」と(笑)。「将来、50歳になって、どっちが成功しているというのではなくて、自分が幸せに生活できるか、それで競争しようや」と言い返していますが。

──その頃の夢は何だったのでしょう。

田畑 特にありませんでしたね。毎日がとにかく楽しければいい、天真爛漫。学校の成績は駄目、忘れ物ばかりしている。親はずいぶんと心配したでしょうね。とりえといえば、愛想がいいところでしょう。商売人の息子で、商人の町で育ったからでしょうか。ところが、中学に入って、「自分はやればできるんじゃないか」と思うようになったのですね。それについて、話しましょう。

 それは英語。その頃は中学へ入ってから英語を初めて習う。最近はもっと早くから習ったりしますよね。それが奨励されているが、私は反対。話は逸れるけど、日本語が話せるから、日本語で考えるから、日本人なんです。ところが、今の日本語はものすごく乱れているでしょう。日本語でまともに話せない、考えられない。それが英語ならできるかというと、英語もろくすっぽできなない。そんな人間、どこの国の人かわからない。日本語で考えられて、正しい日本語を話すというのが、いちばん大切なのです。これが日本人ということです。そのためには中学くらいまでは、まず日本語をしっかり勉強することです。英語なんか要らない。私はそういう方針で、自分の子供には、小学生までは英語を押しつけていません。

 話を戻しますが、小学校の成績が優秀な子も、できの悪い自分も、英語は横一線のスタート。そこに父が目をつけた。「こいつは劣等感ばかり持っているが、英語に関しては優越感も劣等感もない。英語の力がついたら、きっと他の勉強にも自信がつくだろう」と思ったのでしょうね、中学生になったら英語の家庭教師を付けてくれたのです。中学2年頃から勉強の成果があらわれてきた。「あれっ?」って思うくらい他の子よりもできるようなった。「おれもやったらできるな」という体験ですよね。それからです、バーッと成績が上がったのは。だから、私は中2から、こんどは優越感を持つようなった。
父が、「少しずつでも成績が上がってきている。やればできることは、わかっただろう」と言う。やっぱり勉強したらいけるのだな、おれもそんなに頭悪くないのだというのがわかったから、素直ですね。「うん、親父わかった」。すると父が、「もう一回、次の目標を立てろ。高校は、大手前高校へ行くように頑張れ」と。大手前高校ってものすごい進学校、京都大学に毎年100人は入るようなめちゃくちゃ優秀な学校でした。しかし、とりあえず上を狙いたい、親父に言われることを見返し親父を追い越したいという気持ちで目指して無事入れたのです。大手前高校のいいところは、ガリ勉の学校じゃないこと。自由な校風で、ふだん遊んでいたり部活やっていたりしても、定期テストになるとよい成績をとる、いつ勉強しているのかわからないが成績はよい、勉強と遊びの切り替えができる生徒が多かったと思います。

──その頃、将来の夢が生まれたのですか。

田畑 父を超えること、といっても仕事やお金ではかないませんから、違うことをするとは漠然と思っていましたが。高校生の時に、ようやく夢ができました。それがサイボーグをつくることです。

──それはなぜですか。

田畑 人間のからだに興味があったからですね。祖父はがんで亡くなっていますが、父は健康で丈夫。からだ、病気って不思議だなと。

──からだや病気に興味をもつと、ふつうは医師、医学部を目指すのでは。

田畑 父は「理系なら医学部」という考えのようでしたが、私の人生は父を超えようとするところから始まっているから、親父の言うことにはあえて従わない、そこで医学部はファーストチョイスから外れる。では何をしたいかといったら、からだのこと、病気のこと、新しい治療です。あるとき手をしげしげ見たのですね。手は柔らかい、中には硬い骨がある。骨ってセラミックスのようなものだと思うが、手の柔らかいところは何だろうと。有機物という言葉も知らなかったから、ゴムか人工皮革のようなものかと思ったのです。ゴムとか人工皮革とは何か、辞典で調べてみると、高分子と書いてある。「あっ、高分子なんだ。高分子化学を専攻すれば体をつくれるのだ」と思った。それでサイボーグ。

──お父様は、家業を継いでほしかったのでは。

田畑 父が「おまえは何がしたいんだ」と言うので、サイボーグとは言わなくて、人工血管をつくりたいと言ったのです。漫画にあるような、チューブみたいな人工血管のイメージ。そうしたら親父は、「おまえ血迷ったか。人工血管って何だ」という。「プラスチックのチューブで体を置き換えるんだ」「それはちょっとおもしろそうだな」と。「それならば時間を切ろう。30歳までは“プー太郎”でも面倒をみてやる」と。いい家庭でしょう、30まで何をやってもいいのですよ(笑)。そうとなったら、父が取引のある銀行を通じて情報を集めてくれたのです。条件は、国立大学で、理系なら理学部でなくて工学部─これは商売人の感覚でしょうか、サイエンスをテクノロジー(テクノロジーがあるから、サイエンスが商品化される)にするのが工学だということで─、医療材料やマテリアルサイエンスをやっているところ。それであがった情報が、京都大学で高分子化学だったのです。そこで、迷うことなく京都大学工学部高分子化学科へ入学しました。

 これは後からの知識ですが、京都大学の高分子化学科は日本の高分子化学の草分けで、ビニロンを作った桜田一郎先生(故人)が名誉教授。桜田先生が教授のときの助教授が中島章夫先生(故人)、その時、筏義人先生(現・京都大学名誉教授)はまだ4回生でありました。日本の医工学、バイオマテリアルをつくったのは京都大学ですよ。工学部にも医学部のような医局制・講座制があって、就職とか研究室に残るとかは、全部先生の差配で決まった。大名の配置みたいに(笑)。工学部の応用化学というのは、医学と同じで基礎と応用・臨床があって、より実学的なところがある。再生医科学研究所も、もとは医用高分子研究センター、生体医療工学研究センターというセンターです。京大医学部の整形外科と口腔外科、呼吸器外科、それと工学部の高分子化学が集まって、センターとしてまず認められたのです。医学と理学との組み合わせはあるが、医学と工学が共同研究のセンターまたは研究所をつくるというのは、世界も例がなかったのではないでしょうか。

 当時は共通一次試験が導入される前、国立一期校・二期校の時代で、京都大学の場合、試験は3日間12時間、900点満点でした。数学は5問で3時間、気力と体力の勝負でしたね。入学試験時に最大瞬間風速を出す、そういう能力があったのと、センター試験がなくて助かった(笑)。得点のとれない科目は得意な科目で穴うめをして、トータルの得点で勝負する。国語ができなくても英語・数学では負けないぞ、と。優越感と劣等感を自分の中に併せ持っていたのが、ここでもよかった。でも当時の学生はみんなそうだったように思う。今の学生は何でもできるのだけれど、「これが得意で他人には負けない」というのがあるのかな。劣等感をもったことがあるのかな。この気持ちがなければ、落ち込んだ時立ち上がれないのでは。

──入ってみていかがでしたか。

田畑 これはだまされた(笑)、と。そもそも筏先生の研究に惹かれたといっても、具体的な専門もよくわからなかったし、筏先生は助教授で1回生、2回生にはほとんどかかわらない。高分子化学といっても、ポリバケツなんかのことばかり(笑)。人工血管はどうなったんだ、と。

 これは医学部に入り直したほうがよいのかしら、とずいぶん悩みましたが、工学部に決めた時点で自分自身で鎖国状態をつくっていたのです。医学、生物はもう封印してしまわないといけない、そっちに動いてしまわないよう、自分を封印して頑張らないといけないという感じです。だから、生物の本とか医学の本は一切読みませんでした。そのくらい器量が小さかったのですね。
ところが、たまたま医学部の友人と書店の数学書のコーナーで出会って、「おお、久しぶりだな。なんでこんなところにいるんだ」と聞いたら、「数学の問題でも解かなければ頭が腐る」と言う(笑)。医学部というところは、覚えることばかりなのだという。ものを考えていくということは少ない、そういう思考ではないのだそうです。また、友人に組織学の本を見せてもらった時、医学よりも工学、理学の先生が執筆者に多いのを知った。やはり間違ってはいないのかな、工学から医学に行ける、工学知識が医学にも必要である。ポリバケツの研究もサイボーグに到達するのだと思い直すことの大きなきっかけになった。でも、あの頃、工学部の高分子化学の中で医用材料バイオマテリアルといったら、まったく市民権はなかったですね。

 あと、もう一つ、修士課程1年の時に飛びますが、James Anderson先生(現ケースウエスタンリザーブ大学教授)との出会いです。出会いといっても、こちらは学生で押しかけ同然でしたが。Anderson先生は、現在アメリカの人工臓器学会の会長ですが、もともとは工学博士で、医学博士とのダブルディグリーを持っていた。日本でそんな人はいない時代です。
バイオマテリアルの学会で京都大学に来られた時に、「私の人生について相談したい」と、紙に書いて、直訴ですね(笑)。「何だ、おまえ」みたいな感じでしたが、まあホテルで会ってくれました。「私は実は医工連携をやりたくて、筏先生を慕って京都大学に入ったのですが、筏先生はまだ助教授なので講座を構えていないから、これでは自分の夢がかなえられません。だから、私はアメリカへ留学したい。京都大学をやめるから、アメリカへ連れて行ってください」と。そうしたら、Anderson先生は、「筏先生というのは今、助教授だけれど、これから日本でバイオマテリアルの中心になっていく。だから、おまえはそこへ行けば、おまえの道は救われる」と言われたのです。「日本では教授にしかつけない」と英語で言ったのですが、通じたかどうか。
その当時、英語がはっきりと聞き取れなかった私ですが、Anderson先生は、「そんなの簡単だ。何言ってるんだ。その先生についていってやったらいいじゃないか」と言われたと思います。アメリカと日本の大学は違うから「それはできない」と言ったのです。そうしたら、「筏先生の授業をとっているか?」と聞かれた。「授業はとっています」「それなら、授業では一番前の席に座って、顔を覚えてもらえ。とにかく一生懸命聴け。印象づけろ。それで、その先生が講座を構えたらそこに入れ」というふうにサゼスチョンされたのですね。

 これはひとつのエピソードで、転機となった出来事はいろいろあります。こんなふうに私はものすごく悩みが多い。しょっちゅう悩んでいる。自分のことについて、学生のことについて、将来について。周りからはまっすぐ走ってきたように思われているかもしれませんが、いつもこんなふうに悩んでいるとは周囲から見られていないでしょうね。実は私はよく悩み、いろいろなことを気にする性格です。だから、目的がはっきりしないと走れないのです。


<第2回 「高分子から人体へ」に続く>

(インタビュアー:RegMed-now編集室/ 編集:RegMed-now編集室・シーニュ)