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1. インタビュー企画 『未来医療への挑戦者たち』 シリーズ第5弾
京都大学再生医科学研究所 田畑泰彦

【プロフィール】
田畑 泰彦(たばた・やすひこ)
1981年京都大学工学部高分子化学科卒業、同大学院に進学し1988年に工学の博士号を取得。その後、京都大学医用高分子研究センター助手、同大学生体医療工学研究センター助教授を経て現職。教授就任後、2002年に医学、さらに翌年薬学の博士号を取得。

京都大学再生医科学研究所 田畑泰彦 *先生のプロフィールは、アーカイブをご覧ください。

●第2回「研究者・田畑泰彦ができるまで」

──さまざまに悩まれながらも、工学部高分子化学で学ばれて、最初の研究はどのようなテーマを立てられたのですか。

田畑 マクロファージです。

──工学部でマクロファージですか。

田畑 マクロファージにモノを食べさせる。ちょうど理学部の講座、授業に出入りしていたころ、今は、免疫は医学部ですが、当時は理学部や薬学部でも免疫の研究をやっていました。免疫学の先生に、「体の中に入った異物を排除しようというのが免疫だ。ところが、おまえは排除させずに、プラスチックをそこにとどめようというのか。これは免疫学と全く反対の発想だ」と言われました(笑)が、とにかく教えてくださいと。マクロファージはどんなものを食べるのかに興味をもちました。細菌というのは基本的に細胞壁があって表面が疎水性を水に対する接長角度で評価して、マクロファージによる細菌の食べ方を調べたら、疎水性が高ければ高いほど細菌はよく食べられるという報告があった。しかし、この結果はちょっとおかしいのではないかと。疎水性といっても、いろいろなものがあるじゃないか。細菌を用いている限り疎水性の違いを調べることはできない。それなら同じ大きさのもので疎水性の違うものを作らなければ本当のことはわからない。 このためには、「ポリスチレンの粒子がいりますね」と言ったら、教授に「そうだな。それならつくれ」と言われた。「つくれ?」(笑)乳化重合なんかやったことないのにね。「おまえ高分子化学科だろう」と言われた。京都大学工学部の高分子でも乳化重合はやっていないから、企業の人を紹介してもらって、乳化重合やいろいろな方法の勉強をしました。0.5〜10マイクロまで均一の粒子を自分でつくって、それらをマクロファージに食べさせた。別に、セルロースの粒子をつくって、表面を親水性、疎水性、プラスマイナスとか、生理活性を持っているのをつけて、食べさせた。どういう粒子であればマクロファージに食べられるか、それがいちばん最初の研究です。  それがきっかけで、マクロファージを活性化する材料、たとえば細菌の細胞壁を生体吸収性の粒子に組み込んでマクロファージに食べさせ、マクロファージを活性化させた。この粒子のデザインは、今までの研究から、どのくらいのサイズだったら、どの表面性状だったら食べるかという研究のベースになっているのですね。自分で作った粒子を食べさせて、細胞の中で活性化物質を徐放化させ、マクロファージを活性化した。DDSを利用したマクロファージへのターゲティング抗腫瘍活性化をみる研究です。ポリスチレン粒子のマクロファージによる取り込みと抗腫瘍活性化、という研究で工学博士を取ったのです。

──マクロファージの研究で工学博士ですか。そこから、なぜ再生医療に進んだのですか。

田畑 助手になって、留学したいと思った。すでに医用材料、バイオマテリアルのアイデア、技術、サイエンスは、日本のほうが進んでいる。ところが、使い方、ビジネスは進んでいません。それはなぜかわかりますか。サイエンスばかり進めているからです。サイエンスのみに感覚で研究が進むと、得られるものは複雑になることが多い。この方向では、研究成果がビジネスへ展開するのが難しいのです。それに気づいていない。それにアメリカ人は気づいている。そこが大きな違いです。大学の先生にビジネスの感覚がない。大学は大学、企業は企業というので固執があって、どのように研究成果を商品化にむすびつけていくかどうかという考えをしている人は、大学はものすごく少ないです。 筏先生に留学を3年越しで頼みました。そのころはがん、遺伝子、DDSの研究をしたかったのですが、「おまえ、がんも、遺伝子も素人だろう。1年間でできるか。それだったら今やっていることと関係のあるところへ行って、それを広げるほうが、本当に実がある。とにかく世界的な大きいところへ行け」と言われました。大きいところへ行って人脈をつくれと。「大きいところってどの辺ですか」「もう決めておいた。MITと、ハーバードメディカルスクールだ」「エーッ」(笑)。それで私が行ったのが、MITのRobert Langerのところです。22年前、そこで再生医療をやっていたのです。ポスドクが、あの当時12人いました。11か国。材料側からのtissue engineeringをやっていた。いま『Tissue Engineering』のチーフエディターのTony Mikos、David Mooneyとか、みんな同期ですよ。  私がアメリカで学んだことは、研究というのはこういうふうにするのだなということ。共同研究のやり方も学びました。アメリカでは教授というのはこういうbehaviorをしなければいけないということ。Robert Langerは当時42歳でMITの教授、すでに論文を800報出していましたし、awardは40個くらいとっていて、ベンチャーカンパニーを30くらいつくっていたものすごく有名な先生です。アメリカンドリームを絵に描いたような人でした。あの先生みたいになりたいと思いましたね。接し方、学生の引っ張り方、時間の使い方、ものすごく学びました。私の話し方、英語が速いのはそこですね。先生がいるわずかの時間にディスカッションしておかなければいけないでしょう。研究をどう進めるのか?サンプルを購入する許可を得たり、この論文はどうするかとか、部屋からトイレまで行く間の廊下で話さなければいけない(笑)。  彼らがやっていたことは、scaffoldをつくるということでした。その当時、MITでは粒子づくり技術はなく、それを導入したのは私です。そのくらい遅れているのですよ。アメリカの研究レベルは決して高いものではないのです。英語が100%わかるようになったら、アメリカ人同士のディスカッションのレベルがわかる(笑)。いろいろな国から集まってきた研究者が共通語としての英語を手段として、お互いに高めあい、その結果として研究のレベルが上がるのです。  アメリカから帰って、6年ぐらいたってから日本でも再生医療がブレイクした。その時、なぜもっと早く教えないのだと言われたりした。帰国後にその話をしたはず。日本人はただ理解できなかっただけです。私は、初めて再生医療を直接目で見た唯一の人間です。その時の知見から、再生医療には、scaffoldとか材料が大切だというのはずっと言い続けてきています。言っていることは全然変わらないでしょう。ぶれていません。それはなぜかといったら、再生医療の生誕を見ていたからです。どのような研究分野、技術でもいちばん最初のアイデアがずっと生き残るのです。それを忘れず、ぶれず最後まで地道にやっていたやつが勝ちです。目先のこと、理由もなく新しいことに飛びついたらいけないのです。研究というのはそういうものです。

──その後、医学博士、薬学博士もとられています。

田畑 工学博士は28歳で取りましたが、その後、医学部に行っているのです。医学はやらないと自分でたがをはめていたのに。やはり医学の道に入りました。医学部の学生と一緒に授業を受けました。解剖実習もやりました。京都大学は自由でした。それで医学部の大学院は胸部外科に入ったのです。なぜ胸部外科かというのは、再生研の前身のセンターに胸部外科が入っていたからです。胸部外科が、日本でいちばん最初に医用材料を人間に用いた実績があります。それは、結核の患者さんにピンポン球を入れたのです。ピンポン球というのはニトロセルロースでできていて、ニトロセルロースは生体適合性が悪いとわかっていたので、コラーゲンを表面にグラフトしたものです。この治療は当時、日本中の多くの病院で行われた。しかし、生体適合性が完全ではなく、治療は中止になった。このころから、医工連携が行われていた。その後、生体吸収性のポリ乳酸を用いた骨折固定用ピン・ネジ、創傷被覆材などの多くの医用材料を世の中に出してきた。私は脂肪細胞と足場細胞増殖因子を組み合わせ、人間の脂肪組織を作ることに成功、医学博士をいただきました。  薬学は、工学部大学院の時に、薬学部の3回生と4回生、大学院の授業を取っていたのです。薬の知識も必要だと思って。工学博士の学位をもっていれば、医薬工境界領域の研究を進めるのには十分であり、医学や薬学の学位は無理には取らなくてもとも思っていましたが、しかしながら、この時もまた父から「世の中はそんなものじゃない。資格があるのとないのでは全然違うんだ」と言われた。境界領域で生きていくのであれば必要不可欠。薬学部では、プルランという肝細胞に親和性をもつ多糖を利用して、インターフェロンを肝臓にターゲティング、肝炎の治療を行う。あるいは抗がん剤を高分子で修飾、体内動態の改善とがんへのターゲティングなどで薬学博士をいただきました。 月曜日と土曜日だけ研究室にいて、あとは理学部へ行ったり、薬学部、医学部に行ったりしていた。それができたのも、実は筏先生が「うちの学生をよろしくお願いします」と頭を下げてくれたからなのですね。めちゃめちゃ厳しく、とっつきにくそうに見えますけど、学生のことをよく考えてくれた先生だった。「朝令朝改」ですからね(笑)。「これやっておけ」と言われる。1時間くらいしたらまた呼ばれて、「できたか」と言われるの。20ページくらいの論文をポンと渡される、先生は弁当を広げて「今から昼飯食べるから、読んで、食べ終わるまでにまとめろ」と言われる。先生が食べている間、ガーッと読んで、内容をまとめて、「はい、こうです」みたいな(笑)。スパルタでしょう。あのときはものすごくつらかったです。なぜかというと、ほかの学生にはそんなこと言わない。雑用とか。助手じゃないのに、そういうことをものすごく言われていました。生きた教育。  もう一つ言われたのは、対外試合をしろと。高分子化学会とかバイオマテリアル学会だけじゃなく、がん学会、免疫学会、生化学会、薬学会などにも私は博士課程の時から行って発表していました。免疫学会、がん学会で私が発表すると、私の名前の後ろに筏先生の名前が付きます。免疫学会の参加者に工学博士をもつ人などはいませんから、工学と免疫をつなぐために、この先生を一度学会に呼んで話をしてもらおうということになったのです。それで特別講演に筏先生が行った。私はまだ院生ですから呼ばれるわけもありませんから。それで筏先生が特別講演で話をしたのですが、バイオマテリアルがあまりにも免疫分野とはなれた存在であり、質問にもちょっと的外れな答えをされたようです。免疫学会の人にあまりうけがよくない。帰ってきて筏先生の機嫌が悪い。「免疫学会に行ってきた。なんで君はおれよりも有名なんだ」と、それから1時間くらい説教された(笑)。

──他分野、他領域、あるいは企業など、さまざまなつながりをお持ちなのが、田畑先生の個性のように感じます。

田畑 わからない、やりたいことがある。これを実現する最もよい方法はよく知っている人と組むこと、研究成果を世の中に還元するためには商品化が1つの方法である。大学でいくら頑張っても商品化は不可能、企業との共同開発が不可欠である。この理由からさまざまなつながりを大切にしています。 工学部の研究の中には、人がつくれない材料や機能をどんどん組み合わせていく方向に進んでいる。この方向では、糸は複雑になり、一般の人では作れない。これでは実際には役立たない。1つのプロセスが増えると数億円もかけて、そのためのプラントを作らなければならない。そうすると生産物の単価は上がってしまう。それを回収するだけもうけられますか? 大学の研究と実用化の方向は違うベクトルが全く逆なのです。工学部でつくったものを違う分野に出していって、そこで商売しようと思ったら、工学部研究の進め方や考え方では無理があります。たとえばゼラチン。ゼラチンなんか、工学から言うと、あんな古い材料の何がおもしろいのかと言われます。サイエンティフィックに、よく知られた材料を触って何がおもしろいのか?もっと新規な機能材料の方がかっこいいと。ところが医学部へ行くと、利用価値があって業績が高いのです。これまでに使用前例があるが、その材料を工夫することがその材料を患者に使うには近道です。薬剤師が2万人ほど集まる薬剤師学会に招待されました。 発表の後、会長さんから「ゼラチンは薬剤分野では古くからカプセルに使っていたきわめて身近な材料。しかし、身近すぎてその機能には全く気付いていなかった。先生は工学部出身だから、ゼラチンの機能を最大限に引き出すことが可能になったのだ」と。ゼラチンにはいろいろな種類がありますが、ある種類のゼラチンを使った時にgrowth factorが徐放できるのですよ。ゼラチンなんか一般的なものなので、とても特許化できないだろうと思っているとそうではない。特定の種類のゼラチンじゃないと駄目なのです。growth factorを徐放できる性質をもつゼラチンに関する物質特許を私たちはもっています。また、この性質をもつゼラチンをつくるGMP準拠の製造プラントをある企業がつくりました。現在、ゼラチンハイドロゲルの商品化の準備は着実に進んでいます。 共同研究のこつは“ベタおり”です。自分の業績に固執して、偉そうにしていたら、共同研究は絶対できないのです。工学の人間は、材料のこと、表面のアミノ基がどうとかこうとか、そういう議論に偏りがちです。それでは医学の人はいやになるのですよ。私は全然そんなことしないです。だから誰とでもお話ができます。それが私の得意技だと思います。“通訳”みたいなものです。医学部の先生が来たら、「先生、どんなことですか」と言って、「失礼だけれども、先生、材料のことをこれだけわかってください」と“べたおり”で、相手を立てながら話します。これは商売人の発想です。商売人というのは、買ってもらわなくてもお客は神様ですからしっかりと相手をする。「うちの親父はなぜあんな腰の低い態度をとるんだ」と、子供の頃は不思議に思っていましたけれどね。

──それは子供のときからずっと見ていたからですね。

田畑 企業の人が来て、あまりにも技術やその周辺のことを知らない。大学の先生がぶち切れるのは、「もっと勉強してから来い!」と。それは違いますよ。来てもらったら、「ありがとう」と言わなければいけない。だから、自分の業績とかは関係ない。私は「何がわからないの?」と、もう“べたおり”です。そのように接しているから、どんどんネットワークが増えていくのでしょう。商売というのは人脈なのです。金がなくても、人材があれば金は集まる。「おまえは何が偉い。偉そうにするなよ。それで生活できると思っているのか」と父親に言われ続けてきましたから。どんな人にでも、不機嫌になるような態度は絶対にしません。 企業の社長といっても、未知の分野の技術の詳しいことまではわからない。もちろん小学生に話すように、といったら失礼ですが、ある程度雰囲気がつかめるところまでは話しますが、結局は、話をしていて「こいつは信頼できるかどうか」の世界です。研究の話のあとは、飲みにいったりカラオケにいったり。で歌って、「今日はどうもありがとうございました。ところで、さっきの話ですが」「よし気にいった共同研究をしよう」「それには予算は」。仕事が進みお金が動くというのは、そんな感じ。  研究のためには予算は必要。この予算は国からと企業からの2つのルートがある。国の予算の場合には、小さいものでも予算をとる必要がある。国の予算を取るとその研究分野のキーワードが残るのですよ。「再生医療」「セルシート」「組織工学」などのキーワードを先達が残してくれたから、現在、そのキーワードで予算がとれ、我々が研究を続けられる。改良研究的なもの、製品に近い研究など、よりよい製品をつくることができても学術的にはレベルが低いものに対しては国の予算が取りにくいので、この場合には企業と組んで、企業からの研究費をもらう。この辺は学問とビジネスの切り替えがわかってないとできません。そういうことがわかっている大学の先生は、ほとんどいませんよ。 もう1つ大切なことは予算の分散化です。1つの予算では、それがなくなれば食いはぐれてしまう。いろいろなところから予算をとって、もしもの時のことを考えておくことが必要。これも商売人の発想ですか。現在、私は国内外の企業20社ほどのコンサルティングをしています。コンサルティングフィーをいただいていますが、そのほとんどを寄付金として研究室に入れています。1つの理由は、学生の学会参加のための旅費を捻出するためです。アメリカの企業では、コンサルティングは時間給です。電話で相談を受けても、「これだけ調べるのに何時間かかったか」でその時間分も含めて支払ってくれます。その相場と比較したら、日本の企業のコンサルティングは、ボランティアのようなものです。実際、コンサルティング料なしでコンサルティングを行っている場合も多くあります。

──ベンチャーを自分で立ててやったものと、企業にお任せしたものとの違いというのは、どういうところなのですか。

田畑 ベンチャーを立ち上げたというのは、今の企業体のシステムでは実用化や商品化ができないからです。大きな企業体であれば、ある程度の利潤が出ないと商品化へとは動きません。細胞をつくれる企業は存在しません。再生医療産業でも、移植治療の細胞を調製するためのバイオリアクターしかもうけ口はないと思われています、はっきり言って。細胞移植再生治療は、医療行為ですから、それ自身はビジネスになりません。これはほとんどの企業が思っていることです。まず、この事実がわかっていなければいけません。治療のユーザーである医師が何を欲しがっているかをしっかりと知る必要があります。また、細胞移植以外で、しかも企業化が可能な体の自然治癒力を高める方法(再生治療)を探すことが大切です。作り側と使う側がうまくつき合い、話していくとわかっていきます。再生医療には、再生治療とそれを科学的に支える再生研究(幹細胞生物学や創薬)があります。前者では治験が必要となり厚生労働省の許認可が要りますが、後者では、許認可は不要で極端な言い方をすれば、細胞が死ななければどんな材料、技術でもビジネスになります。  もちろん、研究のための研究を将来のためにやるということを私は否定していません。私たちの研究でも、論文しか書けないものもあります。でも、企業が興味のあるビジネスが見える、世の中の人に還元できる研究を大学でも進めることは大切です。再生治療という看板を上げている限り。DDS研究でもそうでしょう。研究成果が患者さんに届けなければいけませんから。

<第3回 「実用化されてこその研究」に続く>

(インタビュアー:RegMed-now編集室/編集:RegMed-now編集室・シーニュ)